チェックメイト。
二つの盤。
武巳と稜子の文芸部2年生お笑い担当の2人組が、盤面を睨みつけていた。
「うぅ〜ん………」
「んー………うーん…………」
さっきから10分はこんな調子で唸っている。
そしてそんな様子に既に飽き飽きな人も2人。
「はぁ……いい加減さ…」
「…諦めろよ………」
どちらもぽつりともらされたものだったが、唸っていた2人が同時にバッと顔を上げた。
「「だめ!!」」
相手をしている亜紀と俊也は、お互いを見遣ってこっそりとため息をついた。
チェックメイト出来ない
「いい加減にしなよ稜子……」
疲れを隠すこともせず、寧ろ大々的に表に表した亜紀だったが、それでも稜子は食い下がる。
「ん…もう、もうちょっと…!」
さっきから出るのはため息ばかり。
亜紀はソファの背凭れに身体を預けて、少しばかり強張った筋肉を解した。長時間の前傾姿勢は疲れる。
「もうちょっと、もうちょっとだから……!!」
そう言いながらはや10分。ほとんど経験のない稜子にも盤面を見れば形勢は一目瞭然。
「うー、手加減とかしてくれないの亜紀ちゃん?」
「したら面白くないからやだって言ったのあんたでしょ」
「うっ…」
にべもない。
即答され言葉に詰まった稜子の視線が留まる先は、やはり目の前のチェス盤だった。
そして、そのほぼ隣。
床に座して胡坐をかいている状態で将棋を指していたのは、武巳と俊也。
過去形なのは、こちらも勝敗が決まったような状況で武巳が1人唸っているだけだからだ。
「…なぁ……」
「…………何、村神」
「お前いい加減負けとけよ」
「それはだめだ!!」
何でそこは即答なんだ、と突っ込んでみる気力もなく、俊也は胡坐を組み直した。
大体、叔父を相手にほぼ毎日指していた俊也に、経験値のない武巳が勝てるはずはない。
ないのだが、武巳は一向に負けを認めようとしない。
亜紀と俊也はまたしてもお互い見遣って、ほぼ同時に今度は大げさなまでにため息をついた。
――――――――早く終わりたい………。
相手の表情から自分の思いが読み取れて、2人は乾いた笑いをこぼした。
「……私、読みかけの本読みたいんだけど………」
「俺眠いんだけど………」
「「だめだってば」」
亜紀は少しばかりの殺意を覚えた。
亜紀と俊也がこんな災難に見舞われたのは、稜子の一言が原因である。
「亜紀ちゃん、チェスやらない?」
「やらない」
一瞬凹む稜子だったが、いつものことだと思いしつこく強請り始めた。
「いいじゃない、この前此処でチェス盤見つけたんだよ。せっかくだから使おうよ、ね?」
「何がせっかくよ…。大体あんた、チェスやったことあるの?」
「うっ………。ない…」
「しかも此処で見つけたって…。それどうせチェス盤だけでしょ?駒がなきゃ意味ないじゃない」
言われて見れば確かにその通りで、稜子が文芸部室で見つけたのはチェス盤のみ。駒がなければ意味がない。
「あ、…ま、魔王様の家にはチェスない!?」
苦し紛れに尋ねてみた稜子。
辞典並みに分厚い本のページを捲る空目は、ふっと顔を上げ、しばし考えてから答えた。
「あるぞ」
稜子が顔を輝かせ、亜紀が渋い顔をしたのは言うまでもない。
「わぁ、ほんとだ!!すごいよ亜紀ちゃん、チェス盤と駒全部ちゃんと揃ってるー!!」
「それが普通でしょうが。………うわ、高いセットだねコレ。良いもの持ってるじゃない恭の字」
「普段やらないからな、質の良い悪いはわからない」
稜子と亜紀がチェス盤に魅入っている頃、武巳がしきりに俊也を誘っていた。
「いいじゃねぇか、やろうぜ村神!」
「なんで俺がそんな面倒くさいことやらなきゃいけないんだよ…。大人しく本でも読んでろって」
はたから見ていると、玩具を買って貰えずに駄々をこねる子供とそれをたしなめるお母さんのようである。
…村神は誰と組み合わせようとも、母親という位置につかされるらしい。
武巳がやろうやろうと言っているのは、チェス盤の隣に置いてあった将棋。
「お前なぁ……。やったことあるのか将棋?」
ため息をつかれながら言われて、武巳はムッとしたらしく頬を膨らませて抗議した。
「馬鹿にすんな!俺だって1回ぐらいやったことあるぜ!!」
「1回かよ………………」
思わず頭を抱える。脱力せずにはいられなかった。
たった1回やっただけで俺に勝てるほどお前は強いのか。
それともアレか、某囲碁漫画のように昔の棋聖でも宿ってるのかお前の中に。
「……………………」
そこまで考えて、俊也は自身の馬鹿馬鹿しい考えにも脱力した。
「お前、いい加減に………………ってオイ」
「ん、何?」
「…まずは人の話を聞けよ………」
武巳の前には将棋盤が鎮座し、本人は胡坐をかいて嬉しそうに駒を並べているところだった。
「なぁなぁ、飛車と角行ってどっちがどっちだっけ?」
楽しそうに尋ねてくる武巳に、俊也は本日もう何度目かわからない脱力感をおぼえた。
完璧にやる気マンマンである。
どうにかしろと稜子を振り返ってみれば、既にゲームを始めてしまっていた。あれほど渋っていた亜紀も、意外に楽しそうにやっている。
……………………………駄目だ。
こうして、俊也は武巳のお強請りに負けたのである(お強請りと言えるほど可愛らしいものではなかったと後に俊也は言うが)。
ところで、その間この邸宅の現主人、空目恭一はというと。
亜紀と短くチェスゲームの仕方について言葉を交わしたあと、さっさとソファに収まって本を読んでいた。
俺もそうしてりゃ良かった、と、俊也は今更のことを心の中でぼやくのだった。
そしてゲームを始めてからおよそ30分後、冒頭に至るのである。
「むー………。亜紀ちゃんどうしてそんなに強いのー?」
「そりゃ、家のパソコン相手にやってたからね」
「うう……………」
唸る稜子の隣では、こちらもまた唸る武巳。
「うーん………どっか……どっかあるはずだ……」
「ねぇよ。王手だ。何処にも逃げ場は作ってない。そこまで甘くねぇぞ、俺は」
「ぐっ…………!」
亜紀と俊也は、心底飽きていた。
そしてそれと同時に、この2人のしつこさに疑問を感じてもいた。
「…ねぇ、稜子。近藤」
「ん?」
「へ?」
向き合ってもいない武巳は、亜紀に呼ばれて思わず素っ頓狂な声が出てしまった。そんなことは意に介さず、亜紀は疑問をオブラートで包むこともなく出した。
「なんでそんなに私らに勝ちたいの?」
それに、俊也が頷く。
いつもならそれなりのところで引くのに、今日は必死に食い下がってきた2人の行動の意味がいまいち理解出来ない。考えてもわからないから聞いてみよう、ということだ。
稜子と武巳が、ぐっと詰まる。
「…そ、……それは………」
「それは?」
「…………言えない」
「………………………はぁ?」
何故か頑なな2人に、亜紀と俊也はいよいよ違和感を感じずにはいられない。
しかしもともと押しには弱いこの2人、亜紀の剣幕に早々と圧され気味である。
「ほら、言ってみな」
「うぅ…」
「お前らのことだから、どうせ勝てるもんでも探してたんじゃねぇの?」
何となしに口にした俊也の言葉。
しかし、それに2人は目に見えて固まる。
………そうか。つまるところはそういう訳か。
「……チェスなら何とかなるかと思ったの稜子」
「う………まさかパソコンなんて手があるなんて思ってもみなかったんだもん……」
「手って………。まぁいいや。とりあえず、この場は負けて」
2人が頑なな理由を知った時点で、最早亜紀にこのゲームへの興味はないも同然だ。
「うにゃ………何処にも逃げ場がないー…………」
犬ならば、耳が垂れていたであろう様子の稜子を見て、亜紀はちらりと向こうを見遣った。
視線の先にいたのは、空目。
「恭の字、ちょっといい?」
空目は亜紀の呼びかけにゆっくりと本から顔を上げた。
「何だ?」
「盤面見て欲しいんだ」
「俺が見てもどうにもならんだろう」
「稜子にチェックメイトしたんだけどさ、この子負けを認めないんだ。恭の字に言われたら諦めるだろうと思って」
その言葉に、空目は栞を挟んで本を閉じ、立ち上がった。
亜紀の言葉はもっともである。
頭が良い空目は、亜紀よりもあらゆる方向から物事を考える。
どこから見ても逃げ場はないと空目が判断を下せば、これ以上のジャッジはない。
稜子も諦めるだろう。亜紀はそう考えたのだ。
空目が、亜紀の背後から盤面を覗き込む。
思案すること数十秒、空目が口を開いた。
「甘いな木戸野。お前は致命的なミスを犯しているぞ」
その顔にしてやったりの微かな笑みが浮かんでいたのは、誰も知らない。
指摘された亜紀は、すぐさま盤を確かめた。
「…………何処よ……わからないってば恭の字」
お手上げよ、とあっさり諦めた亜紀の後ろから、にゅっと空目の手が伸びる。
「此処にまず逃げると?」
言って、稜子のルークを動かす。
「こう攻めるよ」
「ならば俺はこちらへこう行こう。どうだ?」
「それならナイトをこっちに移動させて…………あっ!」
「どうだ?お前の陣に隙が出来る。これでまた勝負は五分五分だ」
「…………………っ」
悔しそうな亜紀。
「なら、私はこっちから攻めるよ。守りが薄い」
「そうか。では俺はそれを真正面から受けて立とう」
そこからは一言も発さず、2人は攻防を続けていた。
稜子はただハラハラとしながら見ている。
亜紀が、高らかに言った。
「ルークは貰った!これでそっちの守りはますます浅くなったね」
またしても形勢は亜紀に傾いている。
しかし、空目はふっと笑った。
「……終わりだ」
「え?」
コトン、とナイトを移動させる。
亜紀の表情が変わった。
「…………チェックメイトだ、木戸野」
「…………………!」
「逃げ場はない。完全にお前の負けだ」
愕然とした亜紀に、空目はそう言ってソファに戻ろうとした。
―――――――が。
「陛下!これは!?」
今度は武巳に呼び止められ、空目はくるりと振り返る。
「何がだ?」
武巳が示しているのは、言うまでもなく将棋盤。
俊也は呆れ顔だ。
「俺は毎日親父と打ってんだぞ。逃げ場がないことぐらい見りゃわかる」
しかしとりあえずといったところか、空目は盤を覗き込みに戻ってきた。
一目見て、目をすっと細めて言う。
「村神。ここから一局打つか」
「…は?」
「ここからでも巻き返して打ち直すことは可能だと言ってるんだ」
またか。また落とし穴を見つけたか空目。
空目からの手合いの誘いを断る俊也ではない。
「……いいぜ、やろう」
そして、幼馴染の攻防戦が始まったのだ。
パチン。パチ。
駒を打つ音が、広い部屋に響く。
亜紀も稜子も、空目に場所を譲った武巳も、食い入るように盤を見ている。
変化は徐々に現れだした。
俊也の表情が曇り、眉間にシワが寄ってきたのだ。
「…………っ」
パン!と、俊也が勢いよろしく駒を盤に叩きつける。
「…盤が傷む、村神」
パチ、と空目が打ち返す。
「んなこと、わかってるよ……っ」
パチン、俊也がさっきよりも柔らかに打つ。
表情は変わらず渋かったが。
「ぐっ……!?」
「ふ………まだまだ、だな。村神」
「…マジかよ……ちくしょう」
「王手だ。俺の勝ちだな」
言って、パァン!と最後の一手を打ち付ける。
「…オイ、盤が傷むぞ……」
「俺の物だ、別に構わん」
そりゃそうだけど、と言いながら盤を覗き込む俊也。
「検討しないか、空目」
「別に構わんが……どういう風の吹き回しだ、いつもはやらないくせに」
「ここまで叩きのめされたのは久しぶりだからな」
「そうか。では、やるか」
「ああ」
検討を始めてしまった2人を横目に、亜紀はさっきのゲームを振り返っていた。
稜子と武巳は、つまらないので携帯でゲームをしていた。
もちろん、チェスと将棋のゲームである。
あやめは、お茶を淹れたり簡単に掃除をしたりと、忙しなく動き回っていた。
「お邪魔しましたー!」
「お邪魔しました!」
「じゃね、恭の字」
「またな、空目」
めいめいに挨拶をして空目邸を出た頃には、日が暮れてしまっていた。
「しっかし、すごいよなぁ陛下!」
「そうだねー、亜紀ちゃんと村神クン負けちゃったもんね」
「うっさいわよ、近藤に稜子」
「……………」
稜子と武巳は、亜紀と俊也に勝てない。
亜紀と俊也は、空目に勝てない。
空目の上に位置する者は、いない。
きっとこれからもそれは変わらない。
彼らは、現世の魔王陛下には一生敵わない。
ただのゲームですら、チェックメイト出来ないのだから。
++アトガキ++
結構好評だった作品。
私もまさか書いていくうちにギャグ風味になるとは思いもよらず。