人間いつかは逝くものだから、その時までを大切にしなさい。
そう言った彼が死んだとき、わたしの世界がにじんだ。
今ではそれも、酒の肴になりつつありますが。
戯れの魔女〜遠い彼の時に〜
クロウ・リードがこの世を去ったのはもう幾年も遡る。
当時は異世界に渡ったのではないかとその世界ではしきりに囁かれたものだが、それは魔術を知らぬ者たちの言葉だ。
クロウ本人を知らぬ者たちの言うことだ。――と、クロウとそれなりに親交のあった身としてはそんな風に考えている。
力を持ち、それを自覚してまだ間もなかったわたしにあだ名をつけ、それを勝手気ままに世に広めた最強の魔術師。
当初こそあやしみ、また勝手なことをしてくれたと怒ったりもしたものだが、今となってはそれとて思い出だ。
自らの魔術師としての地位を知り、理解していた彼なりの、新米魔術師であるわたしへの配慮。
わかりにくいことこの上ないが、それもまた付き合いの長さに勝るほどではない。
自分が噂をするほどの魔力の持ち主ならば、目をつけられこそすれ簡単に襲われることはまず有り得ない。
実際、今まで様々な国や世界を渡ったが、奇襲をかけられることなどまず滅多にあることではなかった。
ともすればただの単なるイジメですよ―――数年数十年経ったのち、琥珀色のグラスを揺らしながら告げた言葉。
そのとき彼は謝るでもなく、せっかくの人の好意をなんだと思っているのだと怒るでもなく、いつものように笑った。
表も裏もきれいに隠しているのか、それとも苦難という苦難を越えてきた者特有のものなのか、その穏やかな笑みは絶やされない。
…………その表情が黒いと称されるときも多々あるが、そこについてはあえてノーコメントを選択した。
ともあれ、そのときの彼の言葉にわたしは少なからず驚かされた。
「なら、ちゃんと意味を汲み取ってくれるだろうと思っていたからね」
呆れてものがいえない。
推測でも希望でもなく、ただそこにあるべくしてあるかのような答え。
わたしならそうすると、断言したのだ。あの男は。
時にはまるでわたし自身であるかのように私の心情を読み取って、時には声なきものから思いを聞く。
思いをしっかり聞き取る。それを、彼はきちんとこなせる。
これが彼が最高の魔術師であるゆえんだと、わたしは長い付き合いの中で感じ取っていた。
クロウは己のもつ奇異なる能力がゆえに、人よりも寿命が長い。
ましてわたしなど、彼は生死という万物の輪廻から外れているのではとさえ思っていた。
けれどそれを告げたとき、クロウはゆるやかに、かつきっぱりと否定した。
そして言ったのだ。
「この世に生ある限り、その先に果てなき道など続かない。こうしてあるものすべて、逃れようなく終わりというものがあるのだよ」
遠回りな言い回しを好む彼にしてはえらく直球だったので、かなり鮮明に記憶している。
まだ魔術師として、そして中身が幼かったわたしは、さらに愚問をした。
「ならば、あなたにもいずれ終わりはくるのか」と。
その問いに彼は何故だか最後まで答えることはなく、代わりにいつも優しく微笑んだ。
裏表のないような、決して折れることのないしなやかさをもった笑みだった。
そして、冒頭の言葉を紡ぐのだ。その時までを大切にしなさいと。
その数年後のことだった。
彼に忠実だった、太陽と月が気配を消した。それがまず何よりおかしいと思った。
あのふたりを仕舞えるのは、創造主であり主でもあるクロウしかいない。
思えばそのとき既に、わたしは確信していたのだろう。あるいは、次元の魔女――壱原侑子も。
そしてそれからさほど時経たずして、彼は死んだ。
それからのわたしといえば、すっかり自身をなくしていた。
まるで身体だけの殻のようで、頭の中は真っ白――――だったらまだしおらしいがそうではない。
魔術師たるもの、平静心忘れるべからず。
魔術を扱う基本中の基本をみっちり叩き込まれていたために、頭真っ白だったのは最初だけだった。
なんと気丈なと我ながら感心すらしたものだ。
インテリアは西洋のものを好んでいた彼のため、墓はイギリスから墓石取り寄せ。
やはりというか何と言うかけっこうなお値段がしたものだから、やっぱり止めますと言いかけた。
今まで西洋のやり方で人を葬ったことがなかったため、魔女つながりで唯一気の置けない友人の侑子ちゃんと共同作業。
葬儀マニュアルを見ながら彼を葬った。
――――享年いくつだったのか、とりあえず墓石にそこだけ空欄にしておくわけにもいかない。
そう言っては、見た目年齢を記しておいた。
そうして、墓を立てたのが彼が死んですぐのこと。
彼の実家にその墓を引き渡したのが、それから…………まぁ10年以内だったような気がする。
とにかく慌しくすごしていたものだから、死んだ当初はそれこそ文字通り実感がわかなかった。
たとえ目の前にクロウ・リードと刻まれた墓石が佇んでいて、今まさに花束を手向けようとしている場面でも、だ。
ただ、事実として認識していた。
クロウ・リードは死んだのだと。
輪廻の輪を人より数倍も早く回って再びこの世に現れようとも、それはクロウの魂を受け継いだ者。彼ではない。
それを何年も何年も経って、腰を落ち着けてぼんやりと考えていたとき、初めて実感としてわいてきた。
風の知らせに受け取った。
イギリスに、彼に酷似した魔力を持った男の子がいると。
イギリスとはまた、
「クロウらしい…」
笑ったつもりが、少し視界がぼやけていた。
「」
わたしを呼んだあの声がかえることは、もうない。
ただそれだけなのに、目頭に熱いものが込み上げた。
久しく忘れかけていた感覚が、彼によって呼び戻された。
「――――クロウ………」
ひとことの呟きは、ひとつぶの涙ともども、風にさらわれていった。
「………そういえばそんなこともあったわねぇ……」
感慨深げに頷く侑子ちゃんの片手には、ロックグラス。
普段は日本酒やワインを好む彼女も、この日だけは必ずウイスキー。
向かい合うわたしの手にも、同じグラス。
わたしたちの間にあるのは、スーパーに良く売ってるようなおつまみ珍味。
「……妙に庶民的だったわよね」
するめをつまみながらスコッチ。うーん、どうもいまいち締まらないような感じがする。
「まぁチーズとかも好きだったみたいだけどねぇ。なんであのメガネはするめがいちばん好きだったのかしら」
「わたしに訊かれても…」
とはいえ、ふたりとも、なんとなくわかってる。
でも、確証がないから口には出さない。
およそ人間離れした、卓越した魔力を持った魔術師。
子供がヒーローに憧れるのと同じだ。
彼はきっと、己を知りながらも人間らしくありたかったのではなかろうか。
すべからく逸脱していたが、いつだってどことなく、そこはかとなく人間くさかったから。
「……アレだから憎めないんだよなぁ…」
いつだったか、太陽の獣がぼそりと呟いていたのを思い出す。
始終愛想のなかった月の審判者ですら、それにはかすかに同意の意を示していたぐらいだ。
「…あのふたり、元気してるかな」
空になったグラスに再び琥珀色をとろりと注ぎながら、ひとりごとのように訊ねた。
「元気でしょうね。…なんたって、あの陰険メガネが創りあげた子たちなんだもの」
からん、と音を立てて中の丸い氷を揺らしながら、侑子ちゃんは遠く遥かに笑いかけた。
こんな日には、優しく霞みのかかった空が最も似つかわしいと思う。
人間くさい魔術師が、いちばん好んだ空だ。
明日になったらチーズケーキでも焼いて、彼の香りが残るあの家を訪れよう。
洋菓子は何でも作れると言ったのに、彼はそれしか頼まなかった。
いつの季節でも変わらずそこにあることをその一切れに望んだのか、それは定かでないけれど。
わたしが勝手に持ち寄った紅茶の缶を開けて、アールグレイでも淹れようか。
口に出したわけでもないのに、侑子ちゃんがこっちを見ていた。
「明日、クロウの家に掃除でもしに行く?」
埃たまってるでしょ。
決して彼がいないことが寂しいのだとは言わないあたり、頑固だなぁと思いつつ。
そうだねと笑って頷いた。
頑固なのはわたしも同じことだから。
+++アトガキ+++
書いたー!
いつもより文章硬めでお送りいたしました。ちょっとこれは好き嫌いが分かれるのではと思いつつ。
私はこういうの好きです。
そして葬儀マニュアルなるものが実在するのかどうかについては突っ込まないで下さい…。